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城巡り

先日、城井谷城へ一人で行ってきました。
ネットで見てどのような場所かは理解していたつもりでしたが、実際に行ってみると自分が過小評価していたことが良く分かりました。

昔の人は本当に凄いですね。

 

戦や外交でその地役を発揮し、豊臣秀吉に天下を取らせた名軍司黒田官兵衛。

そんな官兵衛の前に立ちはだかったのが、宇都宮鎮房です。

 

鎮房は豊前一帯を支配した武士団の統領で、戦では官兵衛に負けることがなかったと言われる宿敵でした。

藤原道兼の流れを汲む宇都宮氏は、現在の栃木県を本拠地としていました。

 

しかし、鎌倉時代に一族の信房が源頼朝の配下として九州で功績を上げ豊前の国に所領を与えられたのでした。

後に、鎮房が起こした豊前国一気を鎮圧するために黒田長政は、城井谷城を攻めましたが敗北。

撤退したものの、険しい地形のため撤退戦も非常に厳しいものだったようです。

 

築上町は険しい地形が多く、その地形を活かして築上城は作られました。

戦国時代、築上の山々には城井ノ上城を始めにたくさんの城がありました。

 

それらの城を築いたのが宇都宮一族です。

 

鎌倉時代初期からおよそ400年に渡って一帯を治めていた豊前最大の武士団で、鎮房の代の時、豊臣秀吉の九州征伐に協力したものの、伊予国に天保を命じられたことに不満を持ち、入れ替わりに豊前を治めることになった官兵衛に反乱を起こします。

 

城井ノ上城の人1人がやっと通れる表門をくぐり城の中に入ると、四つん這いにならないと歩けないような急斜面が広がります。

実戦だと、門を抜けた後の急斜面で絶望を味わう前に、敵から攻撃されて致命傷を負ってしまうことでしょう。

 

滑りやすい岩場は、現代人が登山用靴を履いても用心が必要です。

断崖絶壁に築かれた城で抵抗を続けた宇都宮氏を黒田軍は中々打ち破ることができませんでした。

 

城井ノ上城は、お年寄りや女性、子供を匿うことにも役立つ地形に作られていました。

良民を大切するという宇都宮一族の理念の現れでもあります。

故に、「殿様の悪口を言うとこの土地では生きていけない」と昔は言われていたくらい人々から慕われていたのです。

 

後に鎮房は、和睦のために官兵衛の居城である中津城に行き、主宴の席で謀殺されてしまいます。

そして、一族は皆殺しにされました。

 

しかし家臣であった蔵内家は、裕福な農家となり明治時代より炭鉱業に着手します。

筑豊の炭鉱王として繁栄を極めました。

城井谷城は、携帯が県外になる場所もありますので、装備はしっかりとして行くことをおすすめします。

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