実力主義

新鮮組・土方歳三は幕末東京日野で4男の末っ子として生まれました。

その当時は、将来近所に婿養子に入るのがごく普通のことだったそうです。

しかし、歳三の兄達は歳三が11歳の時に、上野松坂屋へ奉公に出します。

 

当時の奉公人の扱いは非常に厳しく、住み込みの上に最初の3年間は外出を許されていなかったそうです。

また、番頭になるためには、20年以上かかったと言われています。

しかし、20年勤め上げ番頭になれれば、年収が現在の価値で約1,000万円にもなり、農家の収入の7倍にもなったそうです。

 

松坂屋の前進は、名古屋の茶屋町の老舗・いとう呉服店と言いました。

明治43年に栄町に進出。

名古屋発の百貨店として開業した、いとう呉服店には名古屋中の人が集まってごった返したという記録が残っているそうです。

 

百貨店を誕生させたのが、伊藤次郎左衛門祐民という人で、非常に優れた経営者でしたが、それは優れた番頭が揃っていたことも、松坂屋を大きく発展させていました。

 

番頭は、別家衆と呼ばれ、中でも日勤別家(大番頭)は店の頂点に立つ人で、店の一切を取り仕切る立場にある取締役にあたる役職した。

 

別家衆は、世襲制ではなく奉公人の中で最も優秀な者が選ばれるのが別家衆です。

別家の数は決まっていて、別家に娘がいた場合、その娘が結婚する相手は奉公人の中で最も優秀な者と決まっていたそうです。

 

しかし、別家に生まれた男子は、後継者となることは許されていませんでした。

他の奉公人と同じ立場で扱われ優遇されることはないのです。

このように、常に優秀な人材が選抜されるという仕組みにより松坂屋は安定した経営を続けることができていました。

 

別家衆中でも、明治時代に大きな役割を果たしていたのが鬼頭家です。

三代目鬼頭幸七は、2代目の鬼頭幸七の娘と結婚し養子に入りました。

そして、主人である伊藤祐民が栄町に百貨店を開業する時に、実行責任者となり手腕を発揮。

目には見えない、表には出ないけれど、大きな縁の下の力持ちとなった番頭衆の強さが松坂屋のその後の大きな発展に繋がっています。

 

呉服店が百貨店に大きく方向転換をする、というチャレンジを近代的経営の実現ができたのは、江戸時代から続く古い番頭政治がベースにあったからです。

土方歳三は、17歳の時に同じ奉公人の女性と恋仲になり追い出されてしまいましたが、その後の新鮮組の身分を問わない実力主義や規律を守るところなどは、松坂屋での教えが影響していると言われています。

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